2010年はカトリック教会では復活祭が4月4日に祝われましたが、それに先立つ4月2日に、大司教は「共に祝う復活祭」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。
今年の復活祭には珍しい出会いがあります。東方西方の両教会、あらゆるキリスト教派が、同じ日に復活祭を祝うのです。この期日について問題があるということ自体、ある人には驚きかも知れません。復活祭はいつでもどこでも同じ日に祝われるべきだと考えるでしょう。
しかし現実はそう簡単ではありません。復活祭の日の算出は大変込み入った問題なのです。キリスト教の復活祭はもちろんその端緒にユダヤ教の過越祭に関わりを持ちます。イエズスは紀元30年、他ならぬ過越祭に十字架に架けられました。ですから、早くからキリスト者はユダヤ教の過越祭(パスカと呼ばれる)の辺りにイエズスの死と復活を祝っていました。
ユダヤ人はパスカ祭をユダヤ暦のニサンの月の14日に祝います。今年はこれが西暦の3月29日にあたりますが、今回の復活祭(4月4日)はユダヤ教的起源とも近いわけです。キリスト教の復活祭は春分後の最初の満月の直後の日曜日と定められています。最も早くて3月の22日、最も遅くて4月25日となります。東方教会のキリスト者がユダヤ教の古い暦に従っているため、復活祭の期日は東西の教会で異なってしまうのです。今年はそれが一緒になるわけです。来年もまた同じ日になります。
では、キリスト者は同一の復活祭の期日を定め置くことができないのか、とここで問い直してみることができるでしょう。明らかにそれは今日まで実現していません。しかしともかくも今年は共に祝うのです。そして共に祝うわけはここにあります。ユダヤ人にとって過越祭はエジプトでの奴隷状態からの解放、希望に満ちた記念です。キリスト者にとっては死の束縛からの解放、イエズスの復活の記念です。あらゆる救済・解放への渇望は、ここでその答えと出会うことができるのです。
2010年4月6日火曜日
2009年4月24日金曜日
09/01/16 「 危機・希望・信仰」
大司教は現今の金融危機に関連して、「危機・希望・信仰」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。
危機は明らかな現実です。それほど思いがけないことではないにしても、やはり驚きです。まずは連日の銀行関連の暗いニュース。金融危機。株価の暴落。今や我が国の経済についても衝撃的な報道がされるようになりました。「製紙工場が雇用者680人のうち485人を解雇」。「何千人もが短縮労働に甘んじなければならない」。派遣で働いている人たちは簡単に首を切られ、より多くの企業が未来を暗いものとみるようになり、受注簿には空白が続く・・。危機は、現実なのです。
数日前、ドイツの専門家と話す機会がありました。ドイツでは、オーストリアよりは早かったにしても、経済の減退に慎重に対処するにはどうすればよいか、真剣に考え始めるのがあまりにも遅かったとのことです。すべては経済のプラス成長の想定に方向付けられていました。しかし限りなく生長し続ける木や草などなく、当然そんな人間も存在しません。では賢くマイナス成長と向き合うためにどうしたらいいでしょうか?
これは、私たちが皆一つになって、よく考えなければならないことです。必ず克服できるでしょう。それには誠実な徳・姿勢・考え方が必要です。本質を見極める思慮が必要です。そして何より、一致が必要です。個別に戦い抜くのは大変なことです。結束した家族のようなネットワークが、貴重な支えとなるでしょう。政府が、この危機の中、まず家族を支えようとしているのはまったく適切といえます。
オーストリアには3,000を超える小教区があります。ひとつひとつが素晴らしい団結のネットワークです。教区は住まいを提供し、人々がその思いや方向性を見出す助けをします。信仰共同体こそが、このような時勢の最大の支えであるということに、多くの人が今、気付きはじめています。先人たちは、困難な非常時にこそ、何より深い信仰をもち、神のうちにとどまってきました。神こそが、最良の助けなのです。
危機は明らかな現実です。それほど思いがけないことではないにしても、やはり驚きです。まずは連日の銀行関連の暗いニュース。金融危機。株価の暴落。今や我が国の経済についても衝撃的な報道がされるようになりました。「製紙工場が雇用者680人のうち485人を解雇」。「何千人もが短縮労働に甘んじなければならない」。派遣で働いている人たちは簡単に首を切られ、より多くの企業が未来を暗いものとみるようになり、受注簿には空白が続く・・。危機は、現実なのです。
数日前、ドイツの専門家と話す機会がありました。ドイツでは、オーストリアよりは早かったにしても、経済の減退に慎重に対処するにはどうすればよいか、真剣に考え始めるのがあまりにも遅かったとのことです。すべては経済のプラス成長の想定に方向付けられていました。しかし限りなく生長し続ける木や草などなく、当然そんな人間も存在しません。では賢くマイナス成長と向き合うためにどうしたらいいでしょうか?
これは、私たちが皆一つになって、よく考えなければならないことです。必ず克服できるでしょう。それには誠実な徳・姿勢・考え方が必要です。本質を見極める思慮が必要です。そして何より、一致が必要です。個別に戦い抜くのは大変なことです。結束した家族のようなネットワークが、貴重な支えとなるでしょう。政府が、この危機の中、まず家族を支えようとしているのはまったく適切といえます。
オーストリアには3,000を超える小教区があります。ひとつひとつが素晴らしい団結のネットワークです。教区は住まいを提供し、人々がその思いや方向性を見出す助けをします。信仰共同体こそが、このような時勢の最大の支えであるということに、多くの人が今、気付きはじめています。先人たちは、困難な非常時にこそ、何より深い信仰をもち、神のうちにとどまってきました。神こそが、最良の助けなのです。
2009年4月23日木曜日
09/04/11 「神のいつくしみの主日」
カトリック教会では、2003年の典礼暦から、復活節第2主日(イースターの次の日曜日)の名称として、「神のいつくしみ」を付記することが決まりました。復活節と呼ばれるこの時節に、特に神の慈しみを想い、讃えるためです。これは前教皇ヨハネ・パウロ2世の求めに応じての決定です。
09年はこの日が4月19日に祝われましたが、それに先立つ17日に、大司教は「Sonntag der Barmherzigkeit(慈しみの主日)」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。
彼女の名前はファウスティナ・コワルスカ。病が彼女を床に縛り付けるまでは、ごく普通の修道女で、主に厨房で働いていました。彼女は1938年に33歳の若さで亡くなりました。それは地味で人目につかない人生でしたが、イエズスはその彼女に重大な事を打ち明けたのです。イエズスは彼女に語りかけ、彼女はそれを見、聞いたのです。イエズスの語った言葉を彼女は書き留めました。
あるオーストリアの首相は、幻視は精神科の領分である、と言いました。この修道女は精神的に病んでいたのでしょうか。普段の彼女は完全に正常でした。そして彼女がイエズスから預かった言葉は、どこをとっても気の狂ったものとは言えないものでした。そこにはいつもたった一つの大事なテーマがありました。「神の慈しみに信頼しなさい」「イエズスに信頼しないさい。心配に押しつぶされ、自己のしくじりに傷つき、世界が真っ暗に見えても」「疑ってはいけません」「神の慈しみはあらゆる人間の失敗よりも大きいのです」
修道女へのこの“啓示”に対して、批判の声がわき上がりました。「気をつけろ!神の慈しみを強調しすぎれば、人は罪を犯しやすくなる。もし“神はすべてを赦してくださる”のなら、神の罰と、正義と裁きはどうなるのか。」
このポーランドの小さな修道女が、信頼に値する、偉大な喜びの福音を、再び告げ知らせたということを、ほかでもないあの教皇ヨハネ・パウロ二世が念を押して認めました。同教皇は、復活祭後の初めの日曜日を「慈しみの主日」と呼ぶよう定めたのです。しかし、神が慈しみ深いのなら、私たち人間も慈しみ深くなるべきです。
09年はこの日が4月19日に祝われましたが、それに先立つ17日に、大司教は「Sonntag der Barmherzigkeit(慈しみの主日)」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。
彼女の名前はファウスティナ・コワルスカ。病が彼女を床に縛り付けるまでは、ごく普通の修道女で、主に厨房で働いていました。彼女は1938年に33歳の若さで亡くなりました。それは地味で人目につかない人生でしたが、イエズスはその彼女に重大な事を打ち明けたのです。イエズスは彼女に語りかけ、彼女はそれを見、聞いたのです。イエズスの語った言葉を彼女は書き留めました。
あるオーストリアの首相は、幻視は精神科の領分である、と言いました。この修道女は精神的に病んでいたのでしょうか。普段の彼女は完全に正常でした。そして彼女がイエズスから預かった言葉は、どこをとっても気の狂ったものとは言えないものでした。そこにはいつもたった一つの大事なテーマがありました。「神の慈しみに信頼しなさい」「イエズスに信頼しないさい。心配に押しつぶされ、自己のしくじりに傷つき、世界が真っ暗に見えても」「疑ってはいけません」「神の慈しみはあらゆる人間の失敗よりも大きいのです」
修道女へのこの“啓示”に対して、批判の声がわき上がりました。「気をつけろ!神の慈しみを強調しすぎれば、人は罪を犯しやすくなる。もし“神はすべてを赦してくださる”のなら、神の罰と、正義と裁きはどうなるのか。」
このポーランドの小さな修道女が、信頼に値する、偉大な喜びの福音を、再び告げ知らせたということを、ほかでもないあの教皇ヨハネ・パウロ二世が念を押して認めました。同教皇は、復活祭後の初めの日曜日を「慈しみの主日」と呼ぶよう定めたのです。しかし、神が慈しみ深いのなら、私たち人間も慈しみ深くなるべきです。
2008年12月8日月曜日
08/11/28 「Advent! Advent!」
クリスマスを待ち、準備する季節として、教会暦にはドイツ語で「アドヴェント(Advent)」、日本の教会で「待降節」と呼ばれる四週間があります。教会暦ではその第一週目が新年にあたります。この日を前に、大司教は「Advent! Advent!」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。
明日の夜には多くの家々で、アドヴェントクランツに最初のろうそくが灯されます。私たちの多くにとって、特別に忙しい時期が始まります。味わい深いアドヴェント(待降節)について話すことなど、ほとんどお笑いぐさに感じられてしまいます。クリスマス前の静けさの代わりに、街中で買い物騒ぎの熱狂がうずまき、ある者は騒ぎの渦を紛らわすためプンシュスタンドに逃げ込みます。こういうことにアドヴェントの安らぎは望めません。
もしかすると、特別に感慨深く進行することの中には、アドヴェントの意味は全く見出せないのかもしれません。アドヴェントとは、「到来」を意味します。アドヴェントは「待つ」時です。それは、暗闇の中で、苦境の中で、困窮の闇の中で。まさにこのような体験のうちに、神の民、ユダヤ人達は、何百年もの歳月を過ごしたのです。救世主への希望。解放の光への待望。クリスチャンは、アドヴェントをつまりこのように見ます。それは救い主・救世主を待つこと、まもなく来る降誕祭を待つことであると。それもベツレヘムでイエズスがお生まれになることを、知りつつ待つのです。
どうしたらアドヴェントをストレス無しに過ごせるでしょうか。たとえば、自分に尋ねてみましょう、自分が一体何を本当に待っているのか。心の一番深いところで、何を求めているでしょうか。休暇と昇給についての思いを脇に置いてみれば、自分になにを見るでしょうか。自分の深い人生の見通しに突き進むでしょう。自分の本当の期待に。そして、この深みのなかにこそ、神への渇望があらわにされることができるのです。そこで見つけるもの、それは、神が自分を待っていること。神がもうここにいること。私のところにも来て下さる、ということ。アドヴェント!
明日の夜には多くの家々で、アドヴェントクランツに最初のろうそくが灯されます。私たちの多くにとって、特別に忙しい時期が始まります。味わい深いアドヴェント(待降節)について話すことなど、ほとんどお笑いぐさに感じられてしまいます。クリスマス前の静けさの代わりに、街中で買い物騒ぎの熱狂がうずまき、ある者は騒ぎの渦を紛らわすためプンシュスタンドに逃げ込みます。こういうことにアドヴェントの安らぎは望めません。
もしかすると、特別に感慨深く進行することの中には、アドヴェントの意味は全く見出せないのかもしれません。アドヴェントとは、「到来」を意味します。アドヴェントは「待つ」時です。それは、暗闇の中で、苦境の中で、困窮の闇の中で。まさにこのような体験のうちに、神の民、ユダヤ人達は、何百年もの歳月を過ごしたのです。救世主への希望。解放の光への待望。クリスチャンは、アドヴェントをつまりこのように見ます。それは救い主・救世主を待つこと、まもなく来る降誕祭を待つことであると。それもベツレヘムでイエズスがお生まれになることを、知りつつ待つのです。
どうしたらアドヴェントをストレス無しに過ごせるでしょうか。たとえば、自分に尋ねてみましょう、自分が一体何を本当に待っているのか。心の一番深いところで、何を求めているでしょうか。休暇と昇給についての思いを脇に置いてみれば、自分になにを見るでしょうか。自分の深い人生の見通しに突き進むでしょう。自分の本当の期待に。そして、この深みのなかにこそ、神への渇望があらわにされることができるのです。そこで見つけるもの、それは、神が自分を待っていること。神がもうここにいること。私のところにも来て下さる、ということ。アドヴェント!
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