2020年5月9日土曜日

ホームページをご覧いただきありがとうございます。

長年にわたってホームページ担当者が不在のため、多くのページが更新されず、大変申し訳ございません。
教会のニュースと予定に関しましては、随時新しい情報を掲載しておりますので、そちらの方をご覧ください。

なお、ウィーン日本語カトリック教会の新しい連絡先は下記の通りです。
住所: Pulverturmgasse 11, 1090 Wien, Austria/Europe
メールアドレス: wjkg@hotmail.co.jp
電話:+43 66488680598 (携帯)
司牧担当者:青木孝子

メール、あるいはお電話にてお気軽にご連絡ください。


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2010年10月31日日曜日

死 ー そしてそれから?

 カトリック教会では、11月1日に「諸聖人の日」を、2日に「死者の日」を祝います。オーストリアでは「諸聖人の日」は国民の休日となっており、多くの人がこの頃に墓参りをします。大司教は、この祝日に先立つ10月29日のコラムで、「死」について寄稿されました。以下にその全文を訳出します。

 多くの人がお墓を訪れる季節です。お墓参り、死者の魂、亡くなった人への追悼。「死」というものを思い起こさせる時期です。しかし、死とはいったい何でしょうか。終わりでしょうか。全くの無でしょうか。死んだ人が遺すものとは何でしょうか。ほんの少しの思い出でしょうか。そんなものはすぐに色あせてしまいます。死、それは終わりかそれとも始まりか。今ここで私は自分の死について考えているでしょうか。死は必ず来ます。分からないのはそれがいつ来るかだけです。
 11月1日月曜日にまず諸聖人の日(万聖節)があり、そして翌2日に死者の日が来ます。この順番が大事です。11月1日に教会はすべての聖人を記念します。聖人とは誰のことでしょうか。よく知られているのは、例えばアシジの聖フランシスコ、聖アウグスティヌス、福者マザーテレサ。みな偉大な私たちの鑑です。しかし諸聖人の祝日は特に、天国という目的地に到達した数えきれない、名も無いたくさんの人たちのお祝いなのです。彼らの命は神のもとにたどり着いています。そしてそれゆえ、彼らは生きているのです。死は彼らの背後にあるものです。死はもはや彼らに対して何の力も持っていません。
 すべての死者がもうみな神とともに天国にいるのでしょうか。死者の日を祝うのは、私たちが心に留める今は亡き人々が、最後の目的地に到達することを、私たちが望むからなのです。それゆえ私たちは死者のために祈り、そしてその祈りが死者を助け、彼らが光のうちへと、完全に神へと、たどり着けることを信じるのです。お墓参りをすることは、今から私たち自身の目的地を見据えるための手助けとなるでしょう。神とともに道を歩むものには、すでに命があります。そうであるならば、死とは命の完成にすぎないのです。

2010年10月23日土曜日

10/10/22 外国人問題のない教会

 10月10日のウィーンの市議会選挙で極右政党が躍進したことに関連して、24日の「世界宣教の日」について、大司教は「外国人問題のない教会」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。

 ウィーンの市議会選挙の結果はもう出ました。いくらかの悲嘆をよそに、とりわけ外国人に関する論争が取り残されました。ここで行動が求められていると、多くの人にははっきりしました。しかし、行動に移る前に熟慮することが賢明でしょう。これにうってつけの材料があります。
 次の日曜日にはカトリック教会では例年の「世界宣教の日」が祝われます。この日は諸民族の連帯の徴となり、キリストが神の愛を諸国民に証しするようにと私たちを派遣されたことを思い起こさせます。教会はその原初からグローバルに方向付けられていました。教会の中に、邦人も異邦人もありません。私たちはキリストによって、信仰において兄弟なのです。
 このことはウィーンで日々の現実です。こんにちウィーンに住む外国からの移住者は、イスラム教徒よりもキリスト教徒がずっと多いことをご存知ですか。このことは不当に話題に取り上げられてきませんでした。この事実をテーマにしたいと思います。私たちの街と国の将来にとって大事な要素だからです。だからこそウィーン大司教区は意識的にキリスト教徒の移民の融和を促進してきました。彼らのキリスト教共同体がミサを挙行するための十分な場所を確保し、どこから来た人々であっても、クリスチャンとしてウィーンをふるさとのように感じてもらいたいのです。ラテンアメリカやアジア(特にフィリピンとインド)、アフリカ(アフリカ黒人の共同体とコプト教会にはどんなに活気があることでしょう!)、そして南東ヨーロッパ(クロアチア、セルビア、アルバニア等々)からの人々にです。彼らがここウィーンに故郷を見つけ、オーストリアで彼らのキリスト教的特色を保持していけることを、教会は支援します。こんにち、「世界宣教」はウィーンでも実践されています。

2010年10月1日金曜日

10/9/24 現代の守護聖人

 大司教は9月23日のピオ司祭の記念日に関連して、Ein Nothelfer für Heute「現代の守護(救護)聖人」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。 

 私にとってとても大事な人物について、今日はお話ししようと思います。昨日はその人の記念日でした。1968年9月23日に彼は亡くなりました。私が彼と出会ったのは、私が16歳の時でした。彼は南イタリアの片田舎にあるカプチン会の修道院に住んでいました。彼によって、この地は世界的に有名になりました。こんにち、彼の墓をたずねるために、年間700万人の人々がサン・ジョヴァンニ・トロンドをおとずれます。彼、パドレ・ピオは、今ではイタリアで最も人気のある聖人です。
 このカプチン会司祭は何者なのでしょうか。1918年、彼の体にキリストの磔刑の五つの聖痕が現れました。ピオ神父は’’スティグマータ,,と言われるキリストの傷を自らの体に受けたのです。しばらくして、二度と止むことのない巡礼の波が押し寄せるようになりました。ピオ神父は偉大な救護聖人となったのです。彼は一日何時間も告解室で過ごしました。あらゆる人間的な苦難が彼のもとに持ち込まれました。多くの場合、彼はつっけんどんな態度で人々が隠している罪を言い当てることで、かえってこの人々をを助けました。笑い者にするためではなく、治癒する為に。
 忘れることができないのは、彼がどのようにミサを挙行したかです。あれほどに真実な心を打つミサ、私が若者であったあの時以来、二度と同様の体験はありません。そしてそのミサ後の彼との個人的な短い出会いは決して忘れないでしょう。42年前の昨日、彼は亡くなりました。しかし彼の臨在は、当時と少しも変わらず力強く感じられます。パドレ・ピオは多くの艱難の力強い助け手です。

2010年4月6日火曜日

10/4/2 共に祝う復活祭

 2010年はカトリック教会では復活祭が4月4日に祝われましたが、それに先立つ4月2日に、大司教は「共に祝う復活祭」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。

 今年の復活祭には珍しい出会いがあります。東方西方の両教会、あらゆるキリスト教派が、同じ日に復活祭を祝うのです。この期日について問題があるということ自体、ある人には驚きかも知れません。復活祭はいつでもどこでも同じ日に祝われるべきだと考えるでしょう。
 しかし現実はそう簡単ではありません。復活祭の日の算出は大変込み入った問題なのです。キリスト教の復活祭はもちろんその端緒にユダヤ教の過越祭に関わりを持ちます。イエズスは紀元30年、他ならぬ過越祭に十字架に架けられました。ですから、早くからキリスト者はユダヤ教の過越祭(パスカと呼ばれる)の辺りにイエズスの死と復活を祝っていました。
 ユダヤ人はパスカ祭をユダヤ暦のニサンの月の14日に祝います。今年はこれが西暦の3月29日にあたりますが、今回の復活祭(4月4日)はユダヤ教的起源とも近いわけです。キリスト教の復活祭は春分後の最初の満月の直後の日曜日と定められています。最も早くて3月の22日、最も遅くて4月25日となります。東方教会のキリスト者がユダヤ教の古い暦に従っているため、復活祭の期日は東西の教会で異なってしまうのです。今年はそれが一緒になるわけです。来年もまた同じ日になります。
 では、キリスト者は同一の復活祭の期日を定め置くことができないのか、とここで問い直してみることができるでしょう。明らかにそれは今日まで実現していません。しかしともかくも今年は共に祝うのです。そして共に祝うわけはここにあります。ユダヤ人にとって過越祭はエジプトでの奴隷状態からの解放、希望に満ちた記念です。キリスト者にとっては死の束縛からの解放、イエズスの復活の記念です。あらゆる救済・解放への渇望は、ここでその答えと出会うことができるのです。

2009年4月24日金曜日

09/01/16 「 危機・希望・信仰」

 大司教は現今の金融危機に関連して、「危機・希望・信仰」という題で寄稿されました。以下にその本文を訳出します。

 危機は明らかな現実です。それほど思いがけないことではないにしても、やはり驚きです。まずは連日の銀行関連の暗いニュース。金融危機。株価の暴落。今や我が国の経済についても衝撃的な報道がされるようになりました。「製紙工場が雇用者680人のうち485人を解雇」。「何千人もが短縮労働に甘んじなければならない」。派遣で働いている人たちは簡単に首を切られ、より多くの企業が未来を暗いものとみるようになり、受注簿には空白が続く・・。危機は、現実なのです。
 数日前、ドイツの専門家と話す機会がありました。ドイツでは、オーストリアよりは早かったにしても、経済の減退に慎重に対処するにはどうすればよいか、真剣に考え始めるのがあまりにも遅かったとのことです。すべては経済のプラス成長の想定に方向付けられていました。しかし限りなく生長し続ける木や草などなく、当然そんな人間も存在しません。では賢くマイナス成長と向き合うためにどうしたらいいでしょうか?
 これは、私たちが皆一つになって、よく考えなければならないことです。必ず克服できるでしょう。それには誠実な徳・姿勢・考え方が必要です。本質を見極める思慮が必要です。そして何より、一致が必要です。個別に戦い抜くのは大変なことです。結束した家族のようなネットワークが、貴重な支えとなるでしょう。政府が、この危機の中、まず家族を支えようとしているのはまったく適切といえます。
 オーストリアには3,000を超える小教区があります。ひとつひとつが素晴らしい団結のネットワークです。教区は住まいを提供し、人々がその思いや方向性を見出す助けをします。信仰共同体こそが、このような時勢の最大の支えであるということに、多くの人が今、気付きはじめています。先人たちは、困難な非常時にこそ、何より深い信仰をもち、神のうちにとどまってきました。神こそが、最良の助けなのです。